Top > 「玉宮通り」探訪 - インタビュー 
 

 ほんとの始まりは一番始めね、なんでこういう協議会ができたかというと、昭和のちょうど終わりくらい、今は平成やけど昭和の終わりごろに、岐阜の文化センターができたわけ。ほいで前に、今見てもらうと分かるけど、ケヤキがものすごい大きなっとるわね。ケヤキや並木や、ものすごい大きなっとるわ。もう屋根も越えてまっとる。あれがどうやろう…20m以上なっとるかな。それでせっかく文化センターができたで、わたしんとこまだ向こうにも店があったんや、角に。今は英語塾になっとるけど、あそこで商売やっとって、あそこの有志が5~6人集まってね、せっかく文化センターできたで、この通りをカルチャー通りにしよかやって、5~6人が寄って話しとった。

  どうやったらええやんな、何やったら始めれるんやってことで話とって、このケヤキに豆電球を買ってきて、ダーっと今のイルミネーションね、あれがもう今はどこにもあるけども、その当時はなかったわけや。始めてやったもんで…それがどえりゃぁ目立ってケヤキ全部で5~6本やったかな…あれが小さかったとき、まだ植えたてやで、3mあるかなしかくらいのケヤキやったの。それが今20m以上になっとるわな。小さかったもんで、ぐるぐるまるけて、それを夜になると電気をつけてね、やっとったわけやな。

 イルミネーションがものすごく目立ちだして、各種新聞社が来てさ、写真うつして新聞載ったわけ。3社くらい載ったんかな。ほいで、これ今の新聞に載ったもんで市長が見に来て、いっぺんここら辺の会長さんとか発展会長さん、わたしが当時ここの発展会長やっとったもんで、寄っていただいて岐阜市も三次計画に入っとるで協力するで、あんたの方も協力してまえんか、ということで話をもってきて…それでようやく平成2年の2月に協定書を結んだわけ。そしてこの協議会ができたの。それから、この今のをどうやってやろうかってことをいろいろね、まちづくりの契機を。二台商業拠点である岐阜駅周辺地区。市長がおっしゃるには、岐阜駅と、柳ヶ瀬を結ぶ幹線道路やと。人間でいう喉ぼとになるで頼むでと言って、協力してくれんかっていうことで始まったわけ。

 ほいで、だんだんと家が新築してきて、ずいぶん広がってきたの。今までに全部で15~16軒建て替えをやっとるの。それで、それぞれ下がるもんで、どんどん下がるの広がってったの。カラー舗装やったのは、あがったのは平成7年、7年にカラー舗装ができて完成したの。4月にそんで、玉宮まちづくり協定が妥結して、こっから街並みの整備を推進事業として創設したわけ。

 ほいで岐阜市による空地整備補助も、緑地を作る場合は、100万かかったら70万は市が出すと、あと3割は自分で持ちなさいよと…、こういうことになっとるわけ。結局その協定を結ぶときに、この土地を提供するんやったら、市民税もわけてもらわなあかんと、いろいろ議論がでたわけだ。そんでも市はここだけで負けるわけにはいかんと、150も下げてまったら、車置いて駐車場になってまうんじゃないかっていう人もあったし、いろいろあったの。それで2年か3年かかったでしょ、その協定を結ぶまでに。ただし、2階からはちょっと出してもいいと…とにかく1階は150は絶対下げないかん、ということになっとる。ってことは広く見えないかんのよ、この道路が。そして半地下ね、通り一帯の支持地盤の特徴を生かした半地下のある建物にして、個性ある街並みを作り出しましょうという…、こういうこともあった。それでできますよって言った。それから看板の統一まではいっとらんけど、将来はこういうのだんだんやっていかないと…。看板の統一ね、今はばらばらやで。まぁ、気の長い話やよ。とにかくばーんと壊いてまって、いっぺんにやるわけやないで。その人が建てるっていったら下がっていくだけやで。何十年かかるか知らんけど。