Top > 「川原町」探訪 - インタビュー 
 

 この町はですね、中世というのか、信長とか道三が活躍した時代より前から、もうここは川港として栄えていた。もう市が建っていたところなんですよね。今ですと当たり前なんですけど、当時はすべて人力に頼らなければいけない、そうすると川というのは非常に有効な手段で、今で言うと高速道路のような感じですね。それで川上から川島、ここを中継としてまた桑名のほうへ物資が流通していた、そしたら流通の拠点として川港というのは栄えたわけですね。江戸時代になりますと、ここに長良川役所というのがありまして、それで今で言うと税関のように税金をとってですね、物資が上がるたびにそれで税金をとる、と。それはみんな尾張藩なんですけどね。尾張藩でも、直轄の長良川役所もこのところにあった...そういった時代を経てですねここは材木屋さんとか和紙を、いろんな形のですね、とそういういろんなのがあって、ここら辺は江戸時代から明治時代、大正、昭和初期の建物が非常に多かったわけです。

 この川原町まちづくり会ができたのは平成13年なんですけれども、その直前にですね、ここの長良川プロムナード計画というのが県から降りてきて、そこのところに私達、私と十八楼さんなんですけど、委員として参加しまして、普通ですとその頃はまだトップダウンでみなさん、向こうが市役所の方というのか県というのがだいたい決めたものを推し伏せるというものだったんですけど、そのときはですね地元の意見を吸い寄せようということで、私達が個人的な意見でなくて、やはりみんな集まってどんなのがいいか、どんな町がいいのであろうということで、私達は皆さんの意見を伺ったわけですね。そのときの代表的なメンバーが特認となって13年の8月に川原町まちづくり会。で、そのときにまず一番最初にアンケートをとったわけですけれど、やはりここのところがちょっと暗いとか、防災というか危ないということで、そういった意見が一番最初に、でもここのところは非常にいいので皆さん住みたい、住み続けたいという意見が大半でございました。

 それで、まず一番最初にしたのは暗いということで門灯、うちのところにも円い、これが私達の一番最初の一体を現すというか、全てがこの通り。色も形もほとんど一緒、ちょっと一番向こうのところだけ違う形にもしていますけれど、それで一応この町の一体感というか流れを作った、で夜の景色もよくしました。そして案内板をつくりましたね。このせっかくの町だけれど、どんな町だったか今私が申し上げた、そういった由来というのかな、この町の特色を皆さんに知っていただくために案内板を町の真ん中のところに作った。そしてこの町のイメージのために普通のそれまでは同じポストだったのを昔の柱系ですね、あれにもちょっと郵便局の方へお願いに行って変えさせていただきました。そのとき、こういうのを実際に使っているの?という今は当たり前に誰もそういう質問はないのですけども、ただ置いてあるだけで実際に使っているかどうかご存じない方が結構あって、これを使えるのかっていう質問があった、ですね。

 そして今もうそこにありましたマップ、マップが岐阜女子大学の女性、そして岐阜市のブラッシュ委員会と私達で、リスマップといってリスさんの非常にイラストのかわいらしいマップが一番最初に出来ました。で、今これで11年目になりましたか、その間にこのマップはですね、5回くらい、2年にいっぺんくらいの割合で刷り直すというか、どんどんどんどん。はじめはそのリスマップからちょっと変わったモノクロになりまして、そして今カラー版になって、でそれを持って皆さんが歩いていただくと。それが一つのここの、それがお洒落という感じで皆さん歩いていただけるきっかけの一つが、そのマップだったと思います。マップもほんとに他のところと比べますと刷っている冊数も非常に多いと思いますし7万刷っていますので、はい。

 その10年の間にお店もですね、10軒くらい増えました。まず、先ほど言いませんでしたけど、そのきっかけの一つはですねこのままにおいておくとせっかくの、今までのこの町並みが歯抜けになってきたっていうところがあったんですね、皆さんやっぱり高齢化してますのでどうしても、そうすると空き家になっていったりなんかして、それがちょっとどうかなぁという意見があって。その途中で、もう毎年ですけど研修会といって研修旅行もしましたし、いろんなところへ行ってハード面ですね、道路とかその町がどういう風に、あのまちづくりの先駆者のところを訪ねてどういう風にしているのかっていうのを訪ね歩いて、それを3年か4年のうちに川原町まちづくり協定、この屋根の勾配、高さですね、高さとか屋根の向きとか、できれば漆喰で両手面白黒でしましょうとか、必ず格子戸をつけましょうと、いろんな決め事、紳士協定っていうんですけど、一応それをつくりました。

 そういうことが非常に私達もいろんな着実のある行動というのかな、それが認められたのかどうか、今から4年くらい前ですかこの道路修正と無電柱化ですね。そういった岐阜市の120周年にあわせてここの一帯を全部集計をしていただきました。それでまた観光客は非常に増えたというところですね。だけど私達は、観光客を呼び寄せるじゃなくてあくまでも地元住民の方が住みやすく心地よいと、それを重視したまちづくりを目指していますし、私達が享受しているこの文化性というのかな、そしてほんとに川風をいつも感じているこの自然。そこらへんのところがいつまでも保てる日本の良さを感じる町を目指してということ、今見ていただけますけど門松がみんなありますでしょ?門松もずっと手作りで私達は。それまでは、ずっと紙の門松で岐阜市は配ってましたですよね。あれではいかにも寂しいということで、これはずっとその年からですね、作ってます。日の丸の旗が祝日には出ます。日本の習わしが私達がやってきたことは、ここでは続けましょうというところですね。