トップページ / 長良川河口堰 / 水害の歴史
 

 その昔、木曽三川は、下流部で複雑に分かれたり合わさったりしながら流れていました。そのため、大雨がひとたび降るとたびたび河川が氾濫(はんらん)し、川の形を変え、人も家畜も作物といったあらゆる全てのものを奪いました。
 こういった水害から集落や耕地を洪水から守るために、地域全体を堤防で取り囲んだ「輪中」を先人達の手で築き、暮らしていました。

●宝暦治水

 江戸時代の中ごろ(1754〜1755年)、江戸幕府が薩摩藩に命じ、「木曽三川の分流」を目的とした治水工事です。
 薩摩藩は平田靱負(ひらたゆきえ)をリーダーとして油島の締切などの工事や千本松原の植木を行いました。しかし、多くの工事費と犠牲者を出してしまい、平田靱負はその責任を負い自刃しました。
 その後、「治水神社」が建てられ、治水工事にて平田靱負を含む多くのお亡くなりになられた方々を祀り、感謝の誠を捧げ、平田靱負を祭神とした願望成就の神として崇敬されています。
 また、この偉業を永遠に残すために「薩摩義士之像」が作られました。このように、今でも治水の歴史の名残を留めています。


●明治改修
 明治時代、新政府は「木曽三川の完全分流」を目指しました。
 当時の国家予算の約12%という巨額な予算を投じ、オランダ技師のヨハネス・デ・レーケらを日本にまねき、明治20年〜明治45年(1887年〜 1912年)という25年の歳月をかけて大河川改修工事を行いました。木曽三川下流部の原型になりました。


千本松原

治水神社

薩摩義士之像
 

 明治改修のおかげで、下流部の水害は大幅に軽減されました。
 しかし、昭和34年9月の「伊勢湾台風」による岐阜・愛知・三重の三県に大きな被害がでました。また、昭和35年8月の「台風11号・12号」による洪水や昭和36年6月の「梅雨前線と台風6号」による豪雨は大洪水となり、長良川の堤防が決壊するなど広い範囲で被害を出しました。これらの洪水は「昭和三大洪水」と呼ばれています。
 そして、昭和51年には「台風17号と前線」があり、一週間にもわたる豪雨により長良川は大洪水となり堤防が決壊するなど各地で大きな被害が発生しました。

 木曽三川下流部は伊勢湾に面しています。
 そのため、昔から塩水が淡水の下にくさび状にもぐりこむように河川上流に侵入するため、飲み水や農業用水に使われる河川水、さらには土壌にまで塩水が混ざるためにおきる塩害に苦しみました。さらに、昭和30年代から始まった地下水の大量の汲み上げによって起きた地盤沈下は、塩水をさらに上流部へ呼び込んでしまい塩害を拡大させてしまいました。
 そのために、この河口堰により、塩害が上流にのぼることを防ぐことができ、さらに上流で淡水を確保するようになりました。